よしぶえ No.26 2000 SUMMER
夏の少年
こころの噴水
遠い青空 風の馬が走る
雲も水も ワクワクワクワク
煙草の匂いワクワクワクワク
僕のワクワクを乗せて
荷馬車のおじいさんはどこに行ったんだろう
サンダルが行く 世界の涯まで
足裏が憶えているワクワクワクワク
僕の一生は始まったばかりだ
水の匂いが急き立てる
僕の自由 僕のワクワク
出かけて戻らないワクワクワクワク
目次
淀川河川公園ニュース イベント案内 淀川の野草 淀川歴史散歩 淀川河川公園と私
「日蘭交流400周年記念広場」開園
平成12年4月23日(日)、淀川河川公園長柄地区で「日蘭交流400周年記念広場」が開園されました。同地区は明治時代、オランダ人技術者ヨハネス・デ・レーケ指導のもとに、新淀川が開削されたその起点になっており、日蘭交流の記念すべき地と言えます。整備された広場の特徴は、オランダの田園風景に代表されるおおらかな風土や、平面幾何学庭園「ヘット・ロー宮苑」をイメージしたもので、多彩な曲線を基調に設計されています。なお、開園式式典には、デ・レーケやエッシャーの子孫も参加しました。
淀川河川公園ニュース
第22回河川環境管理財団杯・ミキハウス初V!サンスポ野球大会決勝戦
6月4日(日)枚方地区の淀川スタジアムで、第22回河川環境管理財団杯争奪のサンスポ野球大会決勝戦が行われました。試合はミキハウスが、同大会で春秋4回の優勝を誇る強豪の枚方レッドサンを3-1で破り初優勝を果たしました。同日の天候は曇り。午前9時ミキハウス先行で熱戦の火ぶたが切られ、1-1の同点で迎えた7回の表、ミキハウスは3盗失敗2死後、2連打で1点をあげ相手のエラーでさらに1点追加。同裏レッドサンは追撃のチャンスに後続を絶たれ、この明暗が試合を決めました。好投の堀内伸也投手(27)がMVP。6月24日西部ドームで、東日本代表瀧野川信用金庫と日本一を争います。
ミキハウス | 001 000 200=3 |
---|---|
枚方レッドサン | 001 000 000=1 |
春の植木市、守口地区で開催
5月26日(土)・27日(日)の2日間、恒例の「春の植木市」が、淀川河川公園の守口地区で催されました。26日は朝から一日中雨。雨の植木市は始まって以来のことで、それにもかかわらず、会場の守口サービスセンター(昨秋改修オープン)前庭は、まずまずの人出で賑わいました。濡れたタイルに並んだ季節の花や鮮やかな緑に、傘を差したまま多くの人が熱心に見入っていました。27日は天気も回復し前日以上の参加者で、植木市開催以来初めて並ぶ盆栽が人目を引いていました。会場では、無料の鉢植え用の土や花の種の他、河川公園パンフなどが手渡され、参加者の顔がほころんでいました。
新・淀川の大凧と風鎮祭
6月3日(土)太間地区で午前10時から約1時間、「風鎮祭」という珍しい神事が行われました。河川公園利用者とイベントの安全祈願、新調なった大凧のためのもので、当日の天候は約1.5mの微風で本曇り。冬の「凧上げ大会」で人気の”淀川の大凧”が新しい顔で祈願の後初揚げされました。旧大凧は竹と和紙製の仙花イカと呼ばれた16畳敷で、8年間使用。新大凧は微風にもかかわらず、フワリと揚がりどんどん上昇し、「仙花イカではこう簡単にいかない」と関係者の喝采を浴びていました。布地2枚張りのフトン凧と呼ばれ、縱7m横4.5mの20畳敷で足のバランサーは20数mの巨大なものです。
淀川河川公園施設撤去訓練
6月8日(木)午前10時から12時まで、淀川右岸の三島江地区で淀川河川公園施設撤去訓練が行われました。訓練は、<紀伊半島上空に停滞していた梅雨前線が北上、昨夜半過ぎから近畿全域に強い雨があり、淀川水系全域にわたり平均50mmを記録。今後、前線はさらに活発になり、雨量150~200mm、ところによってはこれを上回る見込み。現在の枚方地点の水位は-0.5mだが、5時間後に+1mを超え当地区公園が冠水を始める見込み。>との想定発表を受け、3班の作業班が、管理楝や移動式トイレ、球技設備計13基等を、ダンプ車両等4台で迅速に撤去。講評を受けた後閉会しました。この訓練に先立って、5月16日(火)淀川左岸の太子橋地区豊里大橋下流で、大阪府地域防災総合演習が行われました。強い台風を想定した、土のう作りや基地設置など本番さながらの大規模な水防演習で、陸上自衛隊を含む37機関が参加しました。
イベント案内
7月16日(日)
LOVE遊-淀川 ”淀川クリーンキャンペーン”(城北ワンド)
8月27日(日)
淀川の自然を楽しむ会 ”干潟で遊ぶ”(十三野草地区)
淀川河川公園テニス大会案内
【主催】
淀川河川公園テニス大会実行委員会
【後援】
淀川河川公園連絡協議会
【運営】
ヤマサキテニス企画
【申込受付】
開催日の2ヶ月前から
【申込・問合せ】
淀川河川公園テニス大会事務局
(ニッセイフレンドテニスクラブ)
0727-66-1172
【日程】
種目 | 開催日 | 予備日 | 会場 | 参加費 |
---|---|---|---|---|
小学生 シングルス |
6月18日(日) | 6月25日(日) | 鳥飼上 (摂津市) |
1000円 |
中学生 シングルス |
7月9日(日) | 7月16日(日) | 赤川 (都島区) |
1000円 |
男子 ダブルス |
9月3日(日) | 9月10日(日) | 赤川 (都島区) |
4000円 |
女子 ダブルス |
11月13日(月) | 11月20日(月) | 外島 (守口市) |
4000円 |
小学生 シングルス |
11月12日(日) | 11月19日(日) | 外島 (守口市) |
4000円 |
淀川の野草
文/有馬忠雄
ミヤコグサ
背は低いがふっくらしたまっ黄色の花が群れて咲くので、堤防を歩いていても見つけやすい草だ。葉の色も少し白っぽい緑色だから、ほかの草に比べてちょっと上等な草のように感じられるのでは。だから、ミヤコグサと言うわけではないらしい。地方名に、オツキサンバナ、タマゴバナなど。これらの名前の方がこの草にふさわしいのじゃないかと思う。近頃、淀川では少なくなりつつある一方、外国産のセイヨウミヤコグサが増えだした。
ジュズダマ
艶(つや)のある黒っぽい実に糸を通し、数珠(じゅず)というよりもネックレスを作って首に掛ける。そんな遊びを見ることもなくなった。遊ぼうにも、近くにジュズダマを見られなくなったためだろう。糸を通すとき、真っ白い粉が出てくる出てくるのが面白かった。イネの仲間なのに、そうとは思えないこの実は、葉の鞘(さや)が変化した硬い包(ほう)と呼ばれるものに包まれているのだそうだ。
オオイヌタデ
イヌタデ(アカマンマ)の仲間で、大形、道端や荒れ地に生育する。大きいから大イヌタデとは芸がないが、10cm近い白や淡い赤色の花穂が枝先に垂れている姿は生け花にでもと、つい思ってしまう。しかし、水揚げが非常に悪いのが玉に瑕(きず)。
アレチマツヨイグサ
マツヨイグサといえば、月見草を連想する。ところが、月見草は白い花。マツヨイグサは黄色の花。小型のもので、荒れ地や道端に多いのがアレチマツヨイグサというわけ。しかし、分類学者の研究によれば、この名前に問題が多く、メマツヨイグサという和名に片づきそうである。名前のとおり、花が夕方咲いて朝にしぼむ。花粉を運ぶのは夜中に活動する虫ということになるが、果たしてどんな虫なんだろうか。
淀川歴史散歩―第12回―天文学者間長涯(はざまちょうがい)と海老江周辺
記:滝本明
羽間文庫と淀川改修記念碑
淀川河口から5km地点の左岸、淀川大橋南詰上流側に河川公園海老江地区があります。堤防のすぐ下の町の海老江中公園北側に、江戸時代の天文学者間重富(はざましげとみ)(長涯・1756~1816)に系譜をもつ間家(建物は戦後)があります。現在、同家で集められた貴重な機器や暦法資料は寄贈され市立博物館に所蔵されています。「寛政暦(かんせいれき)」は江戸時代に造られた3回目の暦で、間らが西洋の暦法を初めて取り入れたものとして知られています。その前の宝暦暦は43年間用いられていましたが、寛政の頃にはしだいに誤差が多くなっていました。正確な暦に作り替える時期に来ていたのです。当時すでに、西洋の暦法を用いて造られた中国の暦とその説明書、西洋の測器類が日本に輸入されていました。これらを用いて正確な暦を造ることは多くの識者の望むところでした。しかし、当時造暦の任があった幕府の天文方は、才能を持たず、改暦が出来ない状態でした。幕府は、大阪の民間学者麻田剛立(1734~99)に改暦のことを命じました。剛立は門弟の間重富、高橋至時(1764~1804)を推薦し、2人は寛政7年(1795)に江戸の天文台に入りました。翌年天文方も加わり、彼らは当時輸入された中国の「暦象考成」上下編・後編を基にし、京都の里差を算入、さらに剛立の消長法を加えて暦法を造り2年間の実測でこれを確かめました。暦は「寛政丁巳(ていみ)(9年)暦」と呼ばれ、天保14年(1843)までの45年間用いられました。
同公園内には、明治29~39年(1896~1906)にヨハネス・デ・レーケ指導の新淀川開削を記念した「淀川改修記念碑」もあります。この工事で当地区海老江村北部の90町余が新淀川河床になりました。阪神電車野田駅歩10分JR東西線海老江駅徒歩5分。
海老江八坂神社
海老江中公園内にある八坂神社の祭神は、素戔皿鳴尊(すさのをのみこと)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。境内の石灯籠の年号が天治(1124)とも大治(1126)とも読める事から、創建はかなり古いと想像されます。以前の産土(うぶすな)神(土地の守護神)は牛頭(ごず)天王社(半獣神で仏教の地獄の番人)でした。毎年7月18日の夏の大祭は、地車・枕太鼓が巡行し祭を彩ります。また、府の無形民俗資料に指定されている饗神事(八坂神社の頭屋行事)が、年3回今なお続けられています。地域の悪竜退散祈願に始源があるとされているこの行事は女人禁制。神饌を献じる屋内だけの儀式は長年口述で伝えられ、神事と共に白竜が舞い上がった伝説が残っています。地名のいわれは、当地が古くは海中にあって海老洲と呼ばれていたからだと言います。海老江村は、中津川河口近くの洲・渚が中世以来開拓された低地で、古くから多くの池沼がありました。仏教を弾圧した物部守屋が、3人の尼を池に沈めた話(摂陽群談)もあり、江戸時代村内に悪水排除の樋を伏せた歴史があります。
淀川河川公園と私
一行の淀川に、物書き達の夢を見る
川に沿って人は住む。その暮らしに沿うように、川もまた人々の記憶の中を流れている。それはとても自然な事だ。文学にしばしば川が登場するのは、時間という川に人が沿って生かされていて、心に物語が発生するからだと私は思う。川はその象徴なのだ。友人に誘われて、1998年の「よしぶえ」から淀川歴史散歩のコラムや詩を書きはじめた。
私は昭和18年の大阪生まれだが、歴史的な淀川を詳しく知らない。父は戦死していて、親類預けの少年時を過ごした。母と此花区で暮らした中学生の頃、友達と淀川河口によく出かけた。昭和30年代頃の堤防は土の道で、護岸は石積みの長い斜面だった。夜明け前の岸辺には、ハゼ釣りの人達がいっぱいだった。夏には手製のヤスで、石垣の間のウナギ突きをよくした。河口左岸横の日立造船沖は遠浅で、葦の間をイナが走るように泳いでいた。後に「大阪文学学校」で詩を教えてもらった小野十三郎さんは、この大阪北港付近の重工業地帯を「葦の地方」と呼び、短歌的抒情を排した厳しい風景を詩にされた。
今思えば危険極まりないが、満潮時に数人で、伝法大橋下から板切れに掴まり下流の向こう岸に泳ぎ着いたことがある。真ん中の本流は黒々としていて、河童が出ると噂されていた。対岸の畑でもいだキュウリがうまかった。後で知ったが、対岸の伝法町には少女時代の富岡多恵子さんがいたらしい。彼女は小野さんに師事した。
私が知る限り、「淀川」を最も多く現代詩に書いたのは、寝屋川の農民詩人井上俊夫さんである。井上さんは戦後の詩の前衛グループ「山河」などに属されていて、小説も書かれていた。私は文学学校で教えを受けたが、歴史資料の交野郡庄屋の覚え書をそのまま詩作品にした「惣七家出一件」は衝撃的だった。「三十石船」も詩にされていて、半裸の船乗りたちが掛け声をかけ方向転換するシーンがドキュメント的で迫力があった。「井上俊夫詩集(五月書房)」には「鳥飼の渡し」の章がある。その中の1編「宝積寺三重塔」は、山崎天王山中腹の寺で、塔とそこからは見えない淀川をスケッチする少女の幻想的な話である。[宇治川、木津川、桂川という三つの河が まるで三角関係を精算するため 心中することにきめた 一人の男と二人の女のように 手に手をとりあって落ちのびて行くうち ついに一本の淀川と化する いわゆる三川合流地点の艶な風景を 背にして立つがゆえに この塔はいよいよなまめかしく また常にこの塔をみあげながら流れるがゆえに 山崎付近の淀川はいやがうえにも 臈たけた流れとなって行くのだ]…。井上詩のミステリアスでエロチックな展開が私は好きだった。私の歴史散歩は山崎地区から始まった。毛馬地区には蕪村碑がある。30年程前だった。今は中原中也の研究家として著名な詩人の佐々木幹郎が、淀川の水門管理の会社で働いていた。大雨の時訪ねて来た若い藤井貞和(詩人・源氏物語の研究者)らは、大堰のゴミ取りを竹竿で手伝わされた。私も土手の仮設の事務所で半日話し込んだことがあった。当時佐々木は、高まる学生運動から離れ、毎日淀川の水を眺めながら蕪村のことを考えていたはずだ。蕪村が生まれた毛馬村は石碑から300米の淀川本流内にある。「春風馬堤曲」「澱河歌」で、帰ることのなかった故郷の淀川を、老年になって歌った天明俳壇の革新者の心…。後に蕪村論を出版するこの友人は、若い蕪村のように上京した。
千年前の紀貫之、旅の西行、蕪村、西鶴、谷崎潤一郎…。資料には淀川に佇む様々な物書き達が登場する。時に時空を超え、私も彼らの目で長い一行の物語のような堤の上に立ってみる。
滝本 明
ナンバー12
滝本 明(たきもと めい)
昭和18年3月29日大阪生まれ。詩人・フリーライター。第一詩集「たきもとめいの伝説」で三洋新人文化賞。
新梅田シティ工事塀壁詩で第一回大阪市都市景観アメニティ表彰。99年第四詩集「パースペクティヴ(砂小屋書房)」。他制作多数。